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こんにちは! 農×弁護士! まずはちゃんとした弁護士になりたい。
2012-01-22 (日) | 編集 |
「連帯の挨拶~ローティと希望の思想」(安部彰、生活書院、2011年3月)




その1(理想と現実)はこちら、12月27日付け
http://tomoki86.blog39.fc2.com/blog-entry-117.html

○若干の補足

 “その1”から“その2”まで時間がかかってしまったが、それはひとえに本書を消化しきれていないことにある。全くもって不完全燃焼。歯がゆいばかり。
 今思えば、読んでいる間は夢中だったが、それは目からうろこの連続だったからであった。つまり、連続するほどたくさんのうろこに覆われていた。知らないこと、理解していなかったことが多すぎた。
 そして感想を書くにあたり、それは別に他の人(これを読んでいるあなた)に紹介したいから、ではないのではないかと、ブログをアップロードする理由に関連して思う。ひとえに自分のためである。整理のためである。そしてそのように書き散らした内容が、皆さまのお目を汚して、結果何かにつながれば嬉しいものの、あと10年は修行が必要だと考えている。つまりは、“過程”のブログということである。


○道徳的普遍主義への懐疑

 さて。一ヶ月放置して無意識下でのぐーるぐるに委ねてみたところ、強烈な印象として生き残っていたものは、道徳的普遍主義への懐疑(に関する記述)であった。もっとも、同意はしていない。一つのオルタナティブとして、興味深い考え方であるなと。

 まずは、本書の15ページにおける引用から、引用してみる。

「救助隊員のあなたが、沈没事故の連絡を受けて現場に急行したとしよう。ところが、救助隊員のあなたが乗っている船には一人分の余裕しかないのに、現場では二人の人間が溺れていたとしよう。さらには、溺れている一人はあなたの恋人であり、もう一人は見ず知らずの他人であったとしよう。このとき、あなあたはどのように選択するのが正しいだろうか。」

 続いて、16ページにおける著者自身による例示から。

「あなたは街頭で『彼の地』の飢えた子どものために募金を呼びかけていたとする。そこに、いかにもやさしげな紳士がとおりかかる。このひとならばと、あなたは思う。声をかける。その善意に訴えようとする。ところが、その紳士はすこし間をあけて、こうこたえる。『私も困っているひとを助けたい。ぜひ力になりたい。でも、あいにくもちあわせがなくてね。それだけならいいんだけど、いまから子どもの誕生日プレゼントを買いに行くところなんだ』と。
 この紳士が本当のことをいっているかどうかは、問題ではない。私がたずねたいのは、こういわれて、あなたは援助をもとめる手をひっこめてしまわないかということだ。この紳士のいうことに『共感』してしまわないかということだ。私もそうだ。そしてそれは『自然』なことのように感じられる。そのうえで、これにたいする、かかる共感への、よくある切り返しは、こうである。すなわち『合理』的に考えるなら、飢えている子どもを優先すべきだという。」

 この紳士の言うことを「『自然』なこと」と「共感」する、あるいは“仕方ない”と受け止める。そのような人であっても、しかし、どこか心が痛むのではないか。紳士の言葉を受け入れて引き下がるということは、結局のところ、その分の募金が得られず、「彼の地」の子どもは飢えて亡くなるかもしれないことを意味する。「彼の地」の子どもの命よりも、紳士の子どもの「誕生日プレゼント」を優先したのである。紳士の子どもは、プレゼントがもらえなかったからといって、死にはしない。

 もっとも、以上の具体例には皮肉めいたツッコミが入りそうなので、さらにもう一つ、ローティー自身の具体例を。

「我々の誰もが、警察に追われていたら、家族に匿ってもらいたいと思うだろう。また我々の多くが、自分の子どもや両親が下劣な犯罪に手を染めたことを知っていても、彼らを匿う手助けをするだろう。そうした状況では、子どもや両親に嘘のアリバイを提供するために喜んで偽証することさえあるかもしれない。だが、そのような偽証の結果、無実の人間が誤った有罪判決をうけるとしよう。このとき我々は愛着と正義の葛藤に身を引き裂かれるはずである。」

 ここで、それが合法か否かは置いておく。そうではなく、例えばそれが不正義だと分かっていても自分の子どもを匿う親心というものを果たしてあなたは完全に非難できるのか。


 これらは「従来の主要な倫理学における道徳的ディレンマ」らしい。「そこではもっぱら普遍妥当的な義務や権利をめぐる正義の問題とみなされてきた」とのことだ。この「普遍妥当的な義務」が「道徳的普遍主義」と呼ばれており、それは「人格間の対称性にもとづく倫理的要請」だ。
 僕の理解では、人間は皆、人間であるという点において等しく価値を持つということだ。その尊厳に優劣はなく、等しく尊重されるべきだということだ。したがって、溺れている二人が「恋人」であろうと「見ず知らずの他人」であろうと等しく救助されるべきだということだ。「彼の地」の子どもが飢え死にしそうで、自分の子どもは栄養的に満ち足りているのみならず誕生日プレゼントという贅沢までも与えられようとしている状況においては、プレゼントは断念して「彼の地」の子どものために募金すべきだということだ。無実の人間が冤罪で苦しむことを避けるため、さらには遺族の苦しみを少しでも緩和するために、例えわが子であっても警察に突き出すべきだということだ。

 この「道徳的普遍主義」がローティーによって「挑発」されていると、著者は言う。すなわち、その有効性に懐疑が投げかけられている。再びローティーからの引用である。

「このような葛藤を感じるのはしかし、我々が危害をくわえた無実の人間にどの程度共感できるかによるだろう。もしそのひとが隣人であれば、葛藤はいきおい強烈なものとなるはずである。でも、それが見知らぬひと、とりわけことなる人種、階級、国家に属するひとなら、葛藤はかなり弱まるだろう。ここにあるのは、彼や彼女を『我々の一員』とする、なにかしらの感覚に違いない。それは、我々が偽証に関与するさいに、それがただしいことなのか、そうではないのかとの疑問に苦しめられる以前に存在する、そういったなにかである。とすれば、さきの描写はより適切なものへとあらためられねばならない。つまり、ここで生じているのは愛着と正義の葛藤というよりも、むしろ愛着のあいだの葛藤――家族への愛着と我々の偽証の犠牲者となりうるほどに遠い集団への愛着のあいだの葛藤――なのである。」

 つまり、いざというとき、人は正義か不正義かで判断していないという。そうではなく、端的に、我々との「距離」によって判断している。より近い、近しい人を守ろうとする。そしてそこにこそ、「自然」という理由付け(言い訳?)の源泉があると。
 ここでは、「道徳的普遍主義」そのものの正誤はおそらく厳密には問題となっていない。そうではなく、実際のところどうなっているのか、そして、ならばどうするべきかが問われている。その点においての有効性なのである。

 というのも、あらためて確認しておくと、ローティーも著者も、(例えば貧困による飢餓問題という)「残酷さの回避」という“正義”を実現することが最終目標であった。そのための有効な方策を探っていたのだ。つまり、「道徳的普遍主義」は、そのためには有効ではない、と言いたかった。


 では実際には(道徳的普遍主義ではなく)どうなのか、それはどういう構造をもっていて、どのような限界を抱えていて、現代世界においてどのように位置づけられるのか、等々の著者の主張は割愛するとして。


 しかし、以上の視点は非常に興味深い。言うまでもなく、これから僕が学んでいく“法”というものは、「道徳的普遍主義」に連なるものである。あるいは、少なくとも普遍性はかなりの程度前提としているのではないか。おそらく“人権”獲得の歴史は、人が人であるがゆえに等しく価値をもつ、ことを旗印に、突き進んできた。あるいは、“法の下の平等”である。そしてそれらは安易に相対化されてはならないものではないかと僕なんかは思う。
 ただ、繰り返しておくと、ローティーも著者も、人権獲得の歴史や現代における“人権派”と目的は同じくしている。そのアプローチの違いである。と感じた。

 というわけで、そのような前提の上であれば、大いに“相対化”されるべきであると思うし、学ぶべきことがたくさんあるように感じる。
 むしろ、本当に人権を擁護したいのであれば、徹底的に相対化するべきではないか。擁護したいと思うということは、擁護されていない現状があるわけで、ならば人権を前提とするだけではそのような現状が変わることはなく、なぜ(私以外の他者において)前提とされていないのかを追求してみないことには、有効な方策が生まれることは、おそらくない。のではないか、と。

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