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こんにちは! 農×弁護士! まずはちゃんとした弁護士になりたい。
2011-12-27 (火) | 編集 |
「連帯の挨拶~ローティと希望の思想」(安部彰、生活書院、2011年3月)




○動機その1~プラグマティズム

 ロースクール受験の小論文試験対策本(参考書)を読んでいる中で、僕が最も心惹かれたのが、プラグマティズム的なるものであった。(プラグマティズムが何たるかを知らない現段階では、僕が漠然と抱いているイメージはあくまでも「的なるもの」にすぎない。)
 すなわち、
「ある価値/信念の真偽はその有用性によって判断される」(本書9ページ)

 
 哲学というものは、一般に「真理」を探究するイメージがあるが、抽象化を繰り返した果ての究極における「真理」にいったいどれほどの価値があるのか。価値があるとして、その判断基準とは何なのか。
 その疑問の背後には、証明不可能性がある。その点では、信念、あるいは宗教の教義にも似ているかもしれない。
 つまり、信じる人にとっては「真理」かもしれないが、そうではない人にとっては「信仰」にすぎないし、証明不可能である以上もはや強制的に押し付ける(あるいは教育によって洗脳する)ほかはないことになる。

 例えば、「全ての人間は生まれながらにして平等である」という「(価値を含んだ)真理」について。どうやって証明できるのか?
 
 人類皆平等。このスローガン(イデオロギー)を否定する者に対しては、まるで汚らわしいものでも見るかのような視線が注がれる昨今ではあるが、本当か。
 平等、自由、人権。

 証明不可能であるのに「真理」として「正当化」されるのは、ひとえに「有用」だからである。それが絶対普遍の真理だからではない。(そして「絶対普遍」かのような言い方をされるのは、歴史的にもあまりに易々と侵害されてきたものだからではないか。)

 すると、個別具体的なケースにおいて、「有用」とは言えない場合やむしろ弊害を招く場合には、これは(部分的にであれ)解除される。なぜなら「有用」ではないのだから。(ケースバイケースではなく、全否定をするのがプラグマティズムではないかという気もするが。)

 以上が、プラグマティズム的なものの見方、と僕がイメージしているものである。


 平等という名の下に泣いている人たちがいるいわゆる悪平等であったり、自由の名の下にまかりとおる横暴、といったケースを思うとき、そして人権というものに対する懐疑的な雰囲気(20代だけ?)についてなぜだろうと思うとき、大きな枠組みとしてのプラグマティズム的なるものは随分しっくりきたのである。

 というわけで、その入門書として、本書を読むことにした。
 (リチャード・ローティーについて耳にしたことがあって興味関心があったこともある。)
 (もう一つ白状すると、原著あるいはその翻訳本すら、今の僕にはひどく難解であり、読む力がない。そこで解説書からまず入ろうとした、というのもある。)



 ちなみに、本書の目的は、
「〈『残酷さの回避(avoiding cruelty)』というローティーにおける『正義』の達成にとって、その『方法』、あるいはそもそも『正義』の設定それじたいが有用かどうか。〉そうした観点から。ローティーの理説の問題点を提示し、さらには超克することを試みた。」

 すなわち、端的に、正義論である。例えば貧困問題などの「残酷さ」をいかに「回避」するか。
 その「正義」を達成する為に、既存の「正義」は有効であったか、そしてローティによる代替案は有効か、という問題意識である。

 というわけで、平等・自由・人権といったものの相対化の果てのニヒリズムが目的なわけではなく、むしろバリバリの王道というか、ほとばしる情熱というか。
 そして僕もその情熱に共感するものである。


(つづく)
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