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こんにちは! 農×弁護士! まずはちゃんとした弁護士になりたい。
2013-04-30 (火) | 編集 |
「商店街はなぜ滅びるのか―社会・政治・経済史から探る再生の道」(新雅史、光文社新書、2012)



 本書は、商店街は決して「伝統的なものではなく、日本の近代化の産物である」と主張する。すなわち、「現存する多くの商店街は20世紀になって人為的に創られたもの」なのである。そのことが、「近代社会の政治・経済・社会変動の配置のもとで」描かれる。

 豊富な資料をベースとして展開される「商店街の来歴」は、大変勉強になった。自分の中で、“商店街”に対する見方が大きく変わった。

 その上で、やはり見逃しているものがあるのではないかと、ささやかに気になった。それは、終盤で論じられる“商店街の再生の可能性”に欠如している視点であり、あるいは、冒頭で導入として語られる“被災地における商店街復興へのボランティア熱”への好意的なまなざしに、おそらく感覚的には含まれているはずだが、きちんと言語化されていないように思われるものである。

 それは、“物語としての商店街”ではないか。

 繰り返すが、本書のセンセーショナルな主張は、商店街は創られたものだ、というところにある。決して、伝統的な存在ではない、のだそうだ。私たちの多くは「え?そうなの!」となるのではないか。なぜなら、商店街というのは多くの場合には身近な存在で、あるいは古きよき昭和の時代を語るときには必ず原風景として登場するもので、人によっては“既得権の塊”として映るものの、それはその地にずっと根を張ってきたことが前提にあり、そういう意味での古さをまとい、または人によっては、その原風景の中に(もはや失われてしまったかもしれない)人情を見出す。

 本書はそれが“歴史的には大間違い”であるとするのだが、むしろ僕が興味をひかれるのは、だからこそなぜ“伝統的な存在”とされてきたのか、である。歴史的には新しい存在であるところの商店街が、なぜ、ずっと昔からその地に根を張ってきたかのように“錯覚”されているのか。というか、それを“物語”と呼ぶのである。

 先回りしておくと、“物語の終焉”というのが現代における主流の考え方である。もはや、共通の“物語”など存在しない。個人個人はバラバラの“物語”を信じているのが現実であり、また、それが望ましくもあるとされる。それもそうかなと思うが、果たして全否定できるのか。それでも私たちは、もちろん内部に大いなる差異を抱えながら、しかしやはり何らかの“物語”に依拠しているのではないか。あるいは、依拠せざるを得ないのではないか。

 “商店街”に即して言うと、ならばなぜ、私たちは、地元の商店街の“シャッター通り化”を悲しく思うのか。それは、経済面や治安などのデメリットだけではないのではないか。何らかのアイデンティティに関わるからではないか。

 本書が冒頭で好意的な眼差しをもって描いている、被災地における商店街の復興への、地元の人たちとボランティアたちとの熱い動き。ボランティアがなぜ、イオンやマクドナルドなどの「ショッピングモール地区」には興味を示さず、「商店街地区」へ集まるのか。いろいろな要因があるだろうけれども、本書に言及されていないこととして、ボランティアの側に“商店街”というものに対する“思い”があることも、一つとしてあるのではないか。

 本書はp44で「コミュニティ」に言及している。商店街は「新しいコミュニティ」だそうである。制度としては、新しいのだろう。だが、本当に「新しい」のか。新しいコミュニティを形成するのは、一般に困難である。現実には、これまでのコミュニティを応用、あるいは取り込む形で、形成されてきた、というのが僕の見解である。例えば、かつての村落共同体が、戦後の都市社会においては“会社”という形で生き残っているという指摘がある。“会社”というのは新しいコミュニティ形態ではなく、既存のコミュニティの延長線上にあった。

 商店街が人為的に創り出されたとしても、それが一世紀近く生き残ってきたからには、何か、私たちのメンタリティに共鳴する部分、合致する部分があったのではないか、と僕は思ってしまう。もちろん、そういうメンタリティがあると仮定してだが、メンタリティの側で商店街を変容させて取り込んできた、という見方もできるが。いずれにしても、“物語”としての商店街という視点は重要ではないか。

 私たちは、ロジックの世界にだけ生きているのではない。ましてや、経済合理性だけを指標としているのではない。両者は重要ではあるが、全てではなく、まさにロジックではないからこそ論理的に説明することが一見困難な“物語”や“思い”のようなもの、そこを忘れてはいけないのではないか、とささやかに“思う”のだ。


※なお、「あとがき」を読む限り、著者である新先生に「思い」がないわけではなく、むしろその逆なのではないか。そして、社会学者としての立場から、敢えてそういった非ロジックを封印した可能性があるように感じた。だが、ならば、だからこそ、そこへ踏み込んで、きちんと位置づけることが、非常に重要なチャレンジになったかもしれない。

 個人的には、ロジックと非ロジックの同居というのは、現場主義におけるマクロとミクロのバランスと同様、今後のテーマであるし、日頃から考えていることでもある。なぜなら、それこそが現実に迫ることで、より実践的な解決策を見出すためのヒントだと信じるから。

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